金剛城寺金剛城寺

歴史

建立 推古帝の御子、聖徳太子自ら七種山に登りたまい、山容に霊気を感じて「これ三宝相応の地なり」と讃嘆せられ、国家安泰の祈願所として一寺を建立せんとの願いを抱かれましたが、622年果さずして薨じ給いました。太子の師、慧慈法師よりこれを伝え聞き同じ高麗国の善知識恵、灌法師(推古帝三十三年―625年―渡来しわが国三論宗の第一祖となった) 来朝するや、太子の遺志を継いでこの地に慈岡寺(しげおかでら)を創建しました。法師の徳を慕う諸国の人びと相競って財物を寄進し、七堂伽藍たちまちに竣工、舒明帝の五年(633年)五月十八日法道仙人を供養導師として、 開山の堂供養大法会を厳修しました。 御本尊十一面観世音菩薩は恵灌法師一刀三礼の御作です。
真言密教 当山は初め三論の教学を奉じておりましたが、嵯峨帝の御代、弘法大師播磨巡錫の途次、この寺に滞在して真言密教の秘法を修したまえる時から、真言の法幢を掲げ金剛城寺と称するようになりました。この頃より当山愈々隆昌、数十の僧坊による仏徳讃嘆の梵唄は滝音に唱和して絶える日もありませんでした。
奈良〜江戸 これより前、天平四年焼失、聖武帝の勅命によって再建、降って観応元年(1350年)兵火に依って再び炎上、将軍足利尊氏公当山に帰依篤く伽藍を再興、当郡名柄ノ庄を寄せて永代寺領としました。更に文明十一年(1474年)三度兵火の厄に会い、その後久しく衰徴の一途をたどりました。慶長六年(1601年)中興の大徳、台肪明覚上人(播磨丹波で七ヶ寺を再興)諸方に勧化して堂塔を旧観に復し、姫路城主池田三左衛門輝政公、七種山林五十町四方を永代料に寄せ、更に家康公に上願して慶長九年当山鎮守七種権現領として、山城全体に及ぶ御朱印を下されました。
明治〜現在 明治三年(1870年)廃仏棄釈の法難を蒙り寺領は国家資収され、伽藍また将に破壊されんとしたので、信徒は急遽阿弥陀堂と位承院、地蔵院、正覚院の中の庫裡一棟を田口の村中へ移築し、ご本尊を安置し奉りました。寺河宏俊和上、師円俊和上の跡をついて住職となるや、明治三十年国家を相手に旧境内地七種山林百十余町歩下げ渡しの行政訴願を起し、五ヶ年に亘る辛酸の結果、明治三十五年遂に当寺の勝訴を勝取りました。爾来、宏俊和上、またその師跡を継いだ俊盛和上、そのいずれも再中興ともも言うべき二代に亘る努力に依り、明治四十年代より昭和三十年代にかけて、 本堂、仁王門、客殿、護摩堂、本坊、庫裡、大師堂など、建築の槌音絶える時もなく、現在見るような伽藍整然たる輪奥の美、輝くばかりの浄刹として復興したのです。